奏鳴

Date
2007-02-02 (金)
Category
物語とことば

某友人の日記でちょっと話題になっていた演奏絡みのことで
思い出したので再掲。
2002年くらいの文章なんだけども
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 触れた鍵盤は思いの外重くなくて、わたしの指を従順に受け入れた。
 古い楽器だと聞いていた。硬い音をさせると、順番を待ちながら思っていた。わたしのまえに順番が来た学校の友達のなかには、わたしが良く知っている音の子もいたが、やはりどの演奏も硬くて質感がなく、無機質なおとをしていた。
 けれども覚悟していた音とこの鍵盤とはほど遠く、楽器はすぐにわたしの「したへ引く」沼田門下のキータッチをゆるやかに受け止める。ストロークはあくまで深くかるく、響きは良く伸びるしっかりとした質感をもってこの手に触れた。
 ここにあるのはわたしと楽器と、わたしの耳に鳴る音楽。鍵盤の奥、ハンマーの触れる弦、はね上げられた反響板に映り込むダンパーの上下が、わたしのすべて。うたうようにこぼれていくソナタの主題はこの手と鍵盤とを経てどこかへと逃げていく。
 象牙のわずかに沁みたようないろの、古い鍵盤の触感。わたしの指はいままで楽器を知らなかったのかもしれない、そう思うほどにこの鍵盤はわたしの指を捉えて吸い寄せる。わたしを待っていたのだ、わたしの指をきっと。だから他の子の指ではいけなかったのだ。
 波打つ音の海に溺れるように、いつものように腕ごと楽器に心を預けてしまうこの瞬間が心地よい。わたしの眼は宙を迷いだした。鍵盤を見ても仕方がない。押しとどめようのない速さでわたしの手から失われていく音楽を、ただ身体で感じるだけですべてが麻痺していくようで。
 見失わないように目を閉じた。
 わたしの皮膚を撫でていく旋律のふるえと、身体の内側へと執拗に律動を刻み込む左手のひりつく低音の振動と。わたしの意識は白く汚れてただ鍵盤へと向かう。この指が捉えているなにかを手にしたくて、黒と白との狭間を迷う。白濁する視界にはなにもなく、わたしの指先が触れているのはもしかしたらわたし自身の深い傷なのかもしれない。いまだ罪を知らないはずの、そしてやがてわたしを殺す備えられた傷に。
 耳にはただ装飾音。古い記譜法のターンやトリル。右手の3と4の指がつくりあげている痙攣に、わたしの脳は麻痺する。左手の低音が旋律を奪うようにして刻みつける。重い律動を身体中に感じて背筋にぞくりと鳥肌を立てる。
 楽器とわたしとの境界を、すでに失くしていたのかもしれない。わたしの呼吸や、ダンパーペダルを踏み込む音の息遣い、激しい走句(パッセージ)の向こうに見える何かを捉えようとまた視線を楽器の反響板のむこうへ投げて。
 ワタシノ肌ノ上ヲ撫デデユク振動ト。
 ワタシノ耳カラ脳ヲ支配スル律動ト。
 ワタシヲ思ウママニシテシマウノハワタシノ指ダトイウノニ。
 波のように繰り返す音型を辿りながら、わたしの視界は再た白く霞みはじめた。わたしはいま、何をしているのか。鍵盤のうえで繰り返されるこのいとなみは、ほんとうにわたし自身がおこなっているのか。これはわたしの意識が作り上げた音で、ほんとうはここに鍵盤なんてないのかもしれない。いいえ存在そのものに意味なんてないでしょう。ただ響き続けるこの音楽だけが、わたしのすべて──
 終和音はこの身体じゅうを捉えて離さぬように、講堂のピアノから天井へと残響を昇らせた。あれほど現実感の薄かった世界は舞台のライトと人々のささめきの声とをもってわたしをここへ引き戻す。審査員席に一礼して舞台を降りたが、まだ身体中のどこかが痙攣しているかのように、熱を帯びて。ざわめきの声、楽音のない時間がこうしてわたしの身体を現実に引き戻そうとしているあいだ、わたしはそれに抵抗してさきの熱をなんども身体に呼び起こそうとした。ふるえるままのひざの間や、かたく封されたわたしの胸郭のうえの意識や、ぴりりとしびれたままのつまさきや指の先。
 次の子の演奏がはじまって。
 またあの固い音が、あの楽器から聞こえてわたしは、おそらくは軽い嫉妬と絶望にひたされたまま、そこに座っているだけだった。
 

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