「ここでは死が荒れ狂う」

Date
2007-10-18 (木)
Category
clothes | 音楽の話

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座席は3階席の前から2列目だという。迂闊にアップスタイルにしたりリボンカチュつけて高さが増したり、淡い色のヘッドドレスが照明の落ちた客席で残像になるのも避けたくて、「着いたら外すのが自然な髪飾り」を検討した結果、わたしの回転数の遅い脳では「ボンネット」しか思いつかなかった。

オペラ──あれをそう呼ぶと多分原作者が草葉の影で怒る──を観にいくのにコットンの平服だったのにも理由がある。長大な作品だからなのか、公演はマチネ。夜暗くなってから劇場に着くようなスケジュールであれば、この日限りを覚悟にJulietteの華やかなローブを買うことも考えた。けれど開幕は15時。おとなしくおでかけ着で行こうと結論を出した。それでもメイデンのボルドー色したロングバッスルのワンピに華やかなネックレスを着けて髪を巻くか、メアリのキャラメリゼワンピにブラウスインで行くか、少しは迷ったのだが、前者だと流石に浮くか、マチネにデコルテのあいたドレスを着ていく人などいないだろう、と後者に決定。前者の服に合わせるよさげなストールや(着いたら脱げるような)帽子がなかったのも後者にした理由のひとつでもある。

ボンネットは個人制作の一点もの。製作者の「Kaleido Waltz」さんは、今週末土曜日(20日)に行われるロリィタ服・服飾小物の展示即売会に出られるということで、興味のある方は是非足を運んでいただきたい。


↓以下、服好きの方にはあまり関係のない「ドイツのエロオペラ」に関する無駄語り。

で、本題。
愚痴を飛ばしてインプレッションだけ読みたい、という方はこちらへどうぞ。このページ内のインプレッションの記事に飛びます。


お誘い頂いたのはことしの1月。「クプファー演出、バレンボイム指揮」と言われて一も二もなく飛びついた。
前日になるまで楽団も歌手もきちんと覚えていなかった。前日人に問われて「えーっと、ベルリン国立歌劇場か、ベルリン・ドイツ・オペラかどっちか」と茫洋と答える始末。これは基礎教養だと思うが、クプファーと言われたらベルリン国立歌劇場と考えるのが普通なようだ。

しかも1月から考えるとゆうに10ヶ月あったはずだから、その間に予習はしこたまできたはず。しかも演目が演目なのだから、手持ちの資料でかなり深い予習ができたはずだ。友社が昔出していた「名作オペラブックス」、Dover社のフルスコア、Peters社のヴォーカルスコア、全曲版録音2指揮者ぶん、そして高辻知義氏翻訳の新書館の挿し絵入りの本と比較的新しいリブレットの対訳。原作の原作はゴットフリート・フォン・シュトラースブルクのものと、トマ・ド・ブルターニュの研究者ベディエによる岩波文庫のもの、それからサー・トーマス・マロリーの新訳もあった。これだけアホみたいに揃えておいて、それらすべてがすぎなみに置き去りのまま放置、とはいったいどういうやる気のなさなのか。
一週間前から「予習しなくっちゃ〜」とゆるい寝言を言いつつ、リブレットすら読まないていたらく。せめて手許にあった高辻知義氏のペーパーオペラシリーズのアレくらい目を通しておくべきだった。おかげさまで途中字幕に目が吸い寄せられて困った。ブランゲーネの重要なしぐさをいちどそれで見落としてしまったかもしれない。


ゼロ予習で「トリスタン」に挑むのは、電気GROOVE風に言うなら「新築祝いに手ぶらで挑む」級の無謀だと思っていた。しかも演出はハリー・クプファー。それこそ中学生高校生の頃から憧れつづけていた演出家の舞台が生で観られるこの好機に、ただでさえも要素の多い舞台作品。全容をきちんと把握した上でクプファーの意図をすこしでも多く肌で感じたかった。「これはト書きの指示なのかクプファーの機転なのか」を考える時間は最も惜しい。リブレットを理解し、スコアを把握して、重要なライトモティーフは全暗譜で挑むくらいでないと、ライトモティーフと役者のしぐさや照明の大事なリンケージを見落としてしまう。それがうっかり、ゼロ予習とは。

もちろん物語の筋も知らずに観に来るのは素晴らしいことだと思う。初めて聴く音楽に圧倒されて帰るのも素晴らしいことだと思う。しかしわたしは違った。それこそ年齢がバレる位聴き込んでいる、何度も何度も繰り返してリブレットもスコアも読んでいる、副読本で初演指揮者の可哀想っぷりから初演歌手の悲しいエピソードまでがっちり押さえてるくらいの自他共に認める「ヲタク」なのだ。わたしにとって最も舞台を楽しめる筈の鑑賞方法を、わたしは自分の手で放棄したのだった。アホにも程がある。

足取りも重く、ランチをご一緒する予定だったのに、予定より30分押しで家を出た。頭の中では電気GROOVEが流れている。もちろん「スコアも読まずにクプファーに挑む」とかいう情けない歌詞だ。

ト書きどころか台詞部分に書かれている項目をあげて「これがわかってる演出するなんてクブファーは流石だねえ」と寝言を言う同行者がリブレットをいちども読んだことがなかった、と知ったのは一幕が終わってからだった。


で、インプレッションレポート。

巨大な天使の像。多分あれは「愛の女神」とやらなのだと思う。頭を抱えてうずくまっている半身が見える。片方の翼は無残にも折れ、残骸が腰の辺りに残っている。折れた方の翼の下には椅子とも寝台ともつかぬものがあり、もう片方の翼は広げられ伏せられていた。舞台奥には白い光を漏らす太いスリットがあり、その光に象られたいくつかの墓石のシルエット。
それが舞台の上の全てだった。
この白い光のスリットはどうやら物理的な「昼」と「夜」を示すようで、第一幕と第三幕は白く光っていたが、第二幕では消灯されていた。

この女神像に登ったり、翼の上に寝転がったり、翼の下をくぐって退場したり、折れた方の翼の下の台に腰掛けたり寝そべったりして、舞台が始まる。

この舞台装置、「始まる前から終わってます」と言わんばかり、愛の女神様は幕があく前から頭抱えてうずくまってます、すでに翼までもがれちゃってます、といった風で、クリティカルにツボに入った。船の上から痛々しい片思いを抱え合っているふたりの行く末など語るまでもない、とでも言わんばかりに。
ブランゲーネが毒薬と媚薬をすり替えるシーンは、折れた方の翼の下で行われていた。第2幕では同じ場所──折れた翼の下の寝台──で語られたのは「So Sturben wir....」のあたり。この渋いリンケージに息を呑んだ。
第二幕第三幕ではこの女神像がぐるりと回転して舞台が変わる。イゾルデが密会直前に脱ぎ捨てたガウンがマルケさんのやってきた位置と整合して、ガウン見て愕然とするマルケさん、の小技にもしびれるものがあった。
第三幕では女神様の翼の破損個所に赤いライトが当たって、出血する傷口のように生々しく痛々しかった。

続きは余力があったら。

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