「ギフト」

Date
2008-01-24 (木)
Category
物語とことば

冬コミでは皆様足をお運びいただきほんとうにありがとうございました。
一ヶ月弱の放置申し訳なく。桜野は生きております。
毎年恒例のコミケあとの発熱もなく、妙な風邪も引かず、至って健康に過ごしております(前年度比)。

さて、mixiのほうでひっそりupしていた短編をこちらにもupさせていただきます。
冬の新刊「チェロのための無伴奏アリア」は妹の視点から描いた物語でしたが、
この「ギフト」は兄視点。

お手元の「チェロのための〜」と一緒にお楽しみいただけますよう。

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      ギフト


 まだほんの小さい頃の妹が初めて僕に見せた楽譜は、ピアノのレッスンで書き取りをする時の四段しかない五線紙に書かれていて、拍子と小節線の区切りも合っていなかった。旋律は拙く、たった16小節の短い曲。
 五線紙を僕に渡した時の、妹が僕を見上げる期待に満ちた顔のことを、今でも鮮明に覚えている。僕はその場で──というのもたまたま練習中だったから──彼女の作った旋律を弾いてみせたのだった。
 「これで兄さまはわたしといつも一緒なのね」
 僕を満足げに見つめて微笑んだ彼女のことばが、今でも時折、演奏中にちらつく。

 五線紙はやがて十二段の五線ノートになり、気がつけば判型の大きいケント紙のものに変わっていて、彼女の描く旋律は巧みに、よりうつくしいものへと進化していった。楽器の特性を能く知り、チェロの音色の美しさを引き出す音。幾年もの時間をかけて少しずつ磨かれていく彼女のパッセージに、僕もそれだけの時間をかけて初見演奏が得意になっていったように思う。
 父に奨められて始めたチェロはもう二十年近く弾いていることになるが、練習の目的が妹の旋律を引き出すために変容したのは、何時頃のことなのかもう覚えていない。
 書くほどに巧みに、作るほどにうつくしく耀きを増す、妹のちいさな身体の奥底に眠る力を知りたい。妹の華奢な指が五線に書きつけるただの記号が、僕の手で音楽へと形作られる瞬間の喜悦。僕は音楽の誕生の瞬間に立ち合っている。
 誰も知らない天才の手からこぼれる神の贈物をひとりじめする、この喜悦。

 音楽の専門教育を受けさせようと、昨年には音楽学校の入学を奨めたが、妹は首を縦に振らなかった。中高一貫の学校だから、友達と別れるのも嫌だったのかも知れないが、理由は教えてくれないままだ。
 構わない。専門教育なら大学からでも間に合う。もう少し熱心にピアノの練習をしてもらえば問題ないだろう。──爍子の伴奏で演奏したいと言えば、彼女はピアノの練習に熱を入れてくれるだろうか。

 力及ばぬ凡庸な奏者の僕を踏み越えて、神の領域に手を伸ばして欲しい。
 音楽に仕えるものなら誰もが焦がれる、あの高みへ。


 楽譜に釘付けになる。
 初見だから目が離せない、だけではない。この緻密な構築性。描かれてある主題の巧妙な操作。随所に形を変えて折り込まれるモティーフが作る緊密な作品の造り。ひとつひとつを取り逃がさないように、変奏や反転に気付くたびに僕の胸は躍る。
 うつくしい旋律に溺れてしまわないように。
 僕は奏者だ。曲に躍らされてはいけない。この五線に並ぶ粒を組み敷いて僕のものにする。僕の弓でこの天才の供物に息を吹き込むのだ。
 無上の供物を制御する、しかし僕は音楽の奴隷でしかない。
 神に愛された妹とは違う。

 最後の主音の上にちいさく書かれた「morendo」の文字。死に絶えていく音楽の最後の光が僕の弓の先を離れる。
 息を詰めて僕の楽器を凝視している神の寵児の、花弁のような唇から漏れる吐息。

 ちくりと痛む心臓。軽い眩暈。これは嫉妬なのか。
 神の愛を奪えぬ、この僕の。

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