窓の向こう

Date
2007-06-18 (月)
Category
物語とことば

夏の夜にはまだ早いような気がしなくもないけれど、
わたしの中では梔子は夏の花だ。

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生まれ育った杉並のちいさな家の前には、ヒマラヤスギの並木があって、真夏には剪定されるそれらの枝がさせる、濃密な針葉樹林の香を嗅いでいた。
嘗てわたしの祖父が所有していたはずの隣の土地には、眩暈がするような美しさのヤエザクラがあって、小さかったわたしはその枝を欲しがって泣いた覚えがある。わたしが泣いた日にはもう、そのヤエザクラは隣地の持ち主のものだったから、祖父がそのヤエザクラを所有していた頃などわたしは知る由もない。
父の転勤で家族そろってその家を離れ、数年して戻ったときには隣の家も建替えていて、かのみごとなヤエザクラは見る影も無くなっていた。それからまた数年して、目の前の並木のヒマラヤスギは、その樹齢と弱りを理由に切り倒されてしまった。今はそこに華奢なサクラの木が並んでいる。
桜の木が嫌いだという訳ではない。無論好きな花で、武骨な杉の木にかわって桜が植えられたことを知ったときにはそれなりに喜んだ。けれど夏になるとあの剪定の日の濃密な鮮烈な、針葉樹独特のむせ返るような香りが恋しくなる。雪の積もる隙間から見え隠れする緑の葉が、恋しくなる。

ヤエザクラの枝を欲しがって泣いたあの日、隣の奥方がわたしを近所の花屋へ連れていってくれたことを覚えている。建物の裏に咲いていたヤエザクラは背ばかり高く伸び、誰の腕も枝に届かなかったのだ。どのお花でもいいよ、好きなものをお選び。そう言われてわたしは一層激しく泣いた。あのお花でないと嫌なの。あのお花はここにはないもの。
ヒマラヤスギが目の前からなくなってしまったあの年、もう十分に分別がつく歳だったというのに、あの匂いがしないと嫌なの、と泣きたい気持ちになった。精油でもどこかの枝でもだめ、この窓いちめんを満たすような濃密なあの針葉樹林の香でないと嫌。
違う場所を次の住処に選んだはずなのに、わたしはやはり今年も、杉並のちいさな家の窓から見る風景のレプリカを探していた。公園が見えるといって喜んでいたはずの窓も、遮光カーテンとクローゼットで隠してしまった。あの窓いちめんを満たす針葉樹林のおもたい夏の匂いがないところなんて、と。

──窓のしたから弱々しく香るあまい匂いに気がついたのは、この家に来てからはじめてのことだ。
夏の夜の湿った空気に運ばれてわずかに馨り立つ、これは、そうだ梔子だ。気ぜわしくカーテンを振り払って窓を覗き込むと、階下の庭には背の低い梔子の植え込みが並んでいる。花期の短い、うつくしく咲く時間がほんのわずかの、傷みやすい肉厚の白い花を闇にうかべて梔子が咲いている。

そうか、これからは夏をこうして感じるのだな。
まるで知らないこの場所に、夏の匂いをひとつ見つけたような満ち足りた夜。おもたい甘い湿度の高い、いつしか部屋中にみちるように流れ込む梔子の香り。来年またこの香を嗅ぐ頃、わたしは季節の廻りにきっと気づくのだ。

いつかこの窓が失われるとき、わたしはあの針葉樹の匂いのように、この梔子の香をなくして泣くのだろうか。

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